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11月のふじね:真の人間性

「私もただの人間ですから」「彼もただの人間なのです」または「私たちもただの人間なのです」。こういった表現は、思いがけない間違いやうっかりミスを犯したときによく使う言葉でしょう。赦しの秘跡を授かる時の罪の告白の中でも、よくこの言葉を耳にしました。時には、「神父さん、私たちは人間でしょう?時には失敗して罪を犯してしまうものです。」と司祭に付いてまわる人さえあります。

私たちの多くが、「人間だから」というこの考えに同感されると思います。たとえば、司祭の長い説教にかんしゃくを起こして教会から出て行ってしまう女性。他の信者さんたちは、こう言います。「彼女は普段は冷静な人なのですが、いろいろストレスがあって、長い説教に我慢できず我を失ってしまったのです。彼女も人間ですから。」

私たちはあまり深く考えずに、このような状況で「人間である」という形容詞を使ってしまいます。真に人間であるということは、罪を犯すものなのだ、と誇張するかのように、「人間である」という形容詞を使う傾向があります。この考え方に従えば、「罪を犯さない、うっかりミスをしない人は人間ではない」ということになります。

もちろん、これは事実ではありません。私たちのカトリック信仰は、私たちは神の姿に似せて創造されたと教えています。この神聖な真理は、創世記 第1章27 節に書かれています。したがって、罪は、私たち人間性の一部ではありません。本当は、罪は「反人間的」なものなのです。 罪は、私たちの人間性を破壊し、私たちを非人間化します。

私たちが信仰に生きる上でのモデルである聖母マリアは、人間であるということは、神が私たちを創造されたように生きることなのだ、と私たちに思い出させてくれます。つまり、聖なる、罪のないものである、ということです。

聖母マリアの無原罪の御宿りの教義は、教会で尊重されている真実です。1854年にこの教義を宣言した教皇ピウス9世によれば、彼女はあらゆる罪の汚れから守られていました。

どういう意味かというと、私たちの最初の両親であるアダムとイブを除けば、聖母マリアは、この地上を歩んだ、全くもって唯一の、完璧な人間だったということです。なぜなら、彼女は原罪から守られ、またその人生で一度も罪を犯さなかったからです。

真に人間であるとは、聖母マリアのように、罪の無い状態であることなのです。聖母マリアは原罪の汚れなく宿られましたが(無原罪の御宿り)、私たちは、イエスキリストによって罪から解放される必要があります。ですから、私たちの主イエス・キリストが、私たちに心強い「ゆるしの秘跡」を残してくださったことに感謝しましょう。誠実な悔い改めと司祭から罪の赦しを受ける「ゆるしの秘跡」によって、私たちは真の人間性を破壊する罪から洗い清められます。告白することにより、わたしたちは、洗礼を受けた瞬間の、聖なる恵みをいただいた真の人間の状態に、いつでも再び戻ることができるのです。

待降節のふじね:待降節の人物

時の経つのは早いもので、教会典礼カレンダーの新年が始まる待降節の季節を迎えました。
今年の待降節:アドベントは、12月の第一日曜日に始まります。 12月は、まだまだクリスマスではないことを思い出させてくれます。「アドベント」という、非常に大切であるにも関わらず、正しく評価されないことの多い季節の始まりです。

「アドベント」という言葉は、「到来」または「存在」を意味するラテン語の「アドベントゥス」に由来しています。古代、それは、王または皇帝による一(いち)地方への訪問を意味する言葉でした。キリスト教徒は、神の到来、つまり世界における神の臨在を指して、アドベントという言葉を使います。現在、私たちは、待降節を、4回の日曜日だけという短い期間でお祝いします。ですが、元々は、神の選ばれた民が、約束された救い主の誕生までに経験しなければならなかった非常に長い期間を示します。そのため、アドベントの間、私たちは、キリストの誕生に至るまでの歴史的出来事を思い起こし、私たちの現在の生活におけるその意味について、理解を深めます。

聖書には、私たちの人生における待降節の意味について理解を深めるのに役立つ3人の人物が登場します。それは、イザヤ、洗礼者ヨハネ、そして私たちの聖なる母マリアです。この3人は、待降節の本質的なテーマである切望、期待、悔い改め、回心を体現しています。

イザヤは、「待降節の預言者」と呼ばれています。イザヤによる救世主の預言は、読者の心を揺さぶり、イエス・キリストが実際に到来するという期待と切望の感情を呼び起こします。イザヤ書 第11章10節で、彼は、メシアの到来に関する壮大なビジョンを明かしています。

洗礼者ヨハネは、「待降節の男性」です。 彼は、この時期のもう一つの重要な側面、つまり「悔い改め」と「神への回心」を体現しています。彼は、罪を悔い改め、神に立ち返ることを人々に呼びかけました。洗礼者ヨハネの言葉によれば、罪深い自分自身を脱ぎ捨てることによって、わたしたちは、救い主の到来を喜び、待ち望むに相応しいものとなれるのです。

最後は、「待降節の女性」と呼ばれる聖母マリアです。 神は、彼女を介して、救いの働きへの協力を、一人の女性に運命づけられたのです。神の恵みにより、彼女は、罪の汚れのない状態で、母親の胎内に宿られ、待望のメシアを宿すに相応しい方となられました。マリアは、神の母であるだけではありませんでした。 彼女はまた、神の創造と救いの計画に彼女を密接に結び付けることとなる神のご意志に従った身分の低いはしためでもありました。

皆さん、待降節の御ミサに与る時には、待降節についての理解をより深めて過ごせるよう、預言者イザヤ、洗礼者ヨハネ、聖マリアと共に歩みましょう。待降節をどのように祝うかによって、私たちのクリスマスが、どれほど有意義で実りあるものになるかが違ってくることを、忘れないようにしましょう。

9月の巻頭言

教会の皆さま

夏も終わりが近づいています。2度ほど台風による影響が心配された時もありましたが、どうぞ、ご家族や友人と楽しい夏をお過ごしください。台風による人的被害がそれほど大きくなかったことに、神に感謝いたしましょう。

富士教会現聖堂の献堂25周年を迎えるにあたって実施した外壁の塗装工事も、今月には終了する予定です。献堂25周年および富士教会設立70周年を記念して、このプロジェクトを実施することができましたこと、教会委員会ならびに評議委員会の皆さまに感謝申し上げます。小教区共同体として70周年を記念するにあたり、新しく塗装された教会が、わたしたちに新たなインスピレーションをもたらして下さいますように。

もちろん、外壁塗装は大きな支出です。ですが、窓の桟を修理し、コンクリート壁を補修するためには、欠かせない作業となりました。将来また外壁塗装をする際には、今回よりも大きな補修が必要となるかもしれません。ですが、建物の維持に手がかかればかかるだけ、わたしたちも、信仰心や教会への愛情を育てることが求められてきます。

これから数カ月、教会は幾つかの行事活動で忙しくなります。その1つは11月のバザーです。パンデミック前の時のように、教会でバザーをサポートできることを願っています。バザーは、貧しい人たちへの援助や教会維持のために必要な資金を調達するのに大変役立つ手段です。今年は、教会のプロジェクト実施費用を調達するため、バザーを開催することにしました。

今月も、献堂25周年ということで、十字架称賛の祝日を特別な形でお祝いする予定です。カトリック富士教会は、この祝日に捧げられました。しかしながら、十字架称賛の祝日である9月14日は木曜日です。共同体としてこの祝日をお祝いするため、この日に一番近い日曜日、2023年9月17日に、特別な祈りを捧げることにしました。わたしたちの教会の特別記念日であるこの日、みなが共に集まることができますように。

カトリック富士教会は、十字架称賛の教会です。勝利の十字架とは、木の十字架のことではありません。わたしたちを救うため、自らを犠牲にしてくださったイエスの御体のついていない木の十字架には、何の意味もありません。インターネットで読んだ記事に、こうありました。「悪魔は、イエス・キリストの体がついていない十字架を大変好む。十字架上でのイエス・キリストの勝利を、あなたに忘れて欲しいのだ。」

この教会には、大変美しい木の十字架があります。そこにイエスの体はありませんが、良く見ると、十字架上のイエスを象徴する「ぶどうの実」があります。とても芸術的で、素敵だと思います。ですが、誰でもが、この芸術的イメージの先にある意味を理解できるとは限りません。日本や海外の友人が、この教会はプロテスタントの教会のようだと言うのを何度も耳にしました。彼らは、ここに表わされているイエスのイメージを理解することが出来なかったのでしょう。

毎年クリスマスになると、富士教会のある信徒の方に尋ねられます。「ロエド神父、馬小屋の中に幼子イエスを寝かせなくても良いですか?どうせ、イエス様は十字架にもついていませんしね。そうでしょう?」わたしはにっこり笑って答えます。「飼葉桶に幼子イエスを寝かせて下さい。とりあえずクリスマスですから。」ふと、この人の言うことにも一理あると思いました。イエスを十字架につけたくないのに、なぜ私たちはイエスを馬小屋に寝かせることにこだわるのでしょうか。正直に言えば、心の片隅では、この教会の中央に、木の十字架につけられたイエス・キリストの体を見る日がいつか来ることを願っています。

 

聖パウロのコリントの信徒への手紙1:23にこうあります。
「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」
木の十字架ではなく、十字架につけられたキリストです。聖パウロは、更に続けます。
「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです。」

7月の巻頭言

教会の皆さま

私は子供の頃、亡くなった人や聖人のために一緒に祈るように、と母に言われるのが嫌いでした。 なぜかというと、非常に長いお祈りで、夜9日間連続で行わなければならないお祈りだったからです。私は、特定の聖人に向けて短いお祈りを捧げれば十分ではないか、と思っていました。なぜ母は、私たちに、例えば聖イシドールに向けて、夜9日間連続で祈らせたのでしょう? しかも長いお祈りを。

母は、それはノベナの祈りだからだ、と私たちに言うだけでした。一度1日目の祈りを始めたら、9日目まで続けなければならないものなのだ、と。当時の私たちに残された選択は、母から枝で鞭打たれるか、ノベナの小冊子を手に取るか、そのどちらかでした。もちろん、母親に鞭打たれ、泣いて一晩過ごしたい子供など、どこにもいません。結果、私たちはノベナの小冊子を手に取り、家の祭壇のそばにひざまずいて祈ることを学びました。

ノベナは、ラテン語で9を意味する「novem」という言葉に由来しています。それは、何かのために、誰かのために、特定の聖人や聖母マリア、または聖霊を通して神に祈る9日間のことです。たとえば、大切な物や人を失った時には、パドヴァの聖アントニウスに9日間の祈りを捧げます。病者は聖ロクスに、妊婦たちは聖アンナに祈ります。

ノベナの祈りは、聖書や使徒の生涯が根拠となっているキリスト教の習慣です。使徒言行録第2章で、主の昇天後、弟子たちはイエスの言葉に従ってエルサレムに留まり、共に祈りました。 聖母マリアとともに9日間祈りを捧げた後、弟子たちは聖霊の賜物を受け取りました。

母との苦い経験を通して学んだことですが、私はノベナの祈りを学べて良かったと思います。この献身的な祈りは、私の信仰を強め、常に希望を与えてくれます。9日間、共に祈って、イエスが約束されたことを待ち続けた弟子たちのように、私も、主への信仰を強めながら、ノベナの祈りを続けています。

ぜひ皆さん、教会堂建設25周年を記念して、7月15日から連続9主日、共に祈りましょう。これまで 25 年間にわたって頂いた神の恵みに感謝の気持ちを捧げ、またこれからもお恵み下さいますよう主に願う、ノベナの祈りです。25 周年のお祝いに、一緒にお祈りしましょう。

愛に満ちた全能の父よ、私たちは、この教会建設25周年に、感謝の気持ちを持ってあなたのもとに参ります。私たちは、この十字架の称賛の教会を、長年にわたり、私たちの隠れ家、信仰によって一致する場、そして多くの人々の拠り所とさせていただいたことに感謝します。私たちは、生者も故人も含め、この教会の建設に関わったすべての人々に感謝し、特に、私たちを導いてくださったメイア神父の生涯と証しに感謝いたします。この小教区教会に来ておられた全ての司祭、シスター、信徒に感謝します。

天におられる父よ、この25年間、私たちに対して忠実に、この教会を通してあなたの臨在によって私たちを守ってくださったことに、感謝致します。 私たち一人ひとりとこの小教区教会が、愛の絆で結ばれますように。そして、喜びに満ちたキリストの福音をすべての人々に伝え、イエスが十字架で私たちを救ってくださった愛を、言葉と行いによって証しする恵みを、私たちにお与えください。私たちの聖母マリアの取り次ぎによって、神様の祝福が、私たちの教会と私たちの上にありますように。

聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世よとこしえに生き、治められる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

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